朝ドラが好きだ。
ドラマはほとんど観ないけど、朝ドラは「ドラマを観る」というよりも「朝の15分をどう過ごすか」というシステムの中にもう組み入れられているもの。
よっぽどでない限りは毎日観ている。
そんな朝ドラフリークの私にとっての「マイベスト朝ドラ」が「カーネーション」なので、朝7時15分からの「カーネーション」、そして7時30分からの「おむすび」という30分間は朝のルーティンとなっている。
「カーネーション」と比較することで、どうしても「おむすび」に対しての何とも言えない気持ちが募ってくるのだけど、割り切って「こういうものだ」と思って観ている…でも、やっぱり毎日何とも言えない気持ちになる。
実は、ギャルが登場してあれこれ始まった時点で一度観るのをやめてしまったのだけど、「あれも大事な文化のひとつ」というXでの投稿を読んで、それもそうだな…文化として見ることも大切だ、だって朝ドラだもん、と思い直し、「とりあえず毎日観よう」と心を入れ替えた。
なので、ギャルが集まっていろいろやっていても心は凪のままでいられるのだが、どうしても「うーむ」と思ってしまうのが「ご都合主義脚本」だ。
誰かが困っていると、なぜか今まで見たことのない人が突然現れて、なんかうまい具合に物事が進んで解決してしまう。悩んでいるとちょうどいいタイミングでなぜか糸島から誰かがやってきて、物事をかき回していく。この「なぜか」の部分がまったく説明されないので、視聴者としては置いてけぼりを食った気になるのだ。
「なんで来たの?」という問いに「この人、今までも気が向いたら旅に出るような人だったから」と言われても、そんな描写今まで一度もなかったし(いや、あったかもしれないけれど、印象にはない)、「とってつけた」感が高まってしまう。
「なぜ今ここにいるの?」という疑問に対して「なんか思い立ったから」「あの時世話になったから」という答えでは、私は満足できないのだ。
この「ご都合主義」がずーっとドラマを取り巻いていて、主人公は悩んでもいつの間にか(本人の努力とか葛藤が描き切れないまま)物事が前に進んでしまう。それを「主人公と周囲の人間との絆」と片づけるのは、いささか安易すぎるのでは…と思ってしまうのだ。さらっとしている、し過ぎている。
比較するのは本当に酷だと思うけれど、「カーネーション」で描かれる「あれもこれも、ちゃんと全部繋がっている」という「バックグラウンドの完璧さ」には、やはり唸ってしまう。
突発的に何か些細な事が起こっても、それは別の何かの伏線だったり「ああ、だからあの時ああなったのか」という納得感のための材料だったりして、本当に、ひとつとして無駄がないし、かといって過剰もないのだ。
周防さんとの関係性が露見する前の、恵さんが春太郎のラジオを聴く場面。最初観たときにはあの場面の意味がよく分からなかった。
でも、あの場面があることで糸子の不義が際立つし、何より「春太郎は女とうつつを抜かしていても芸の肥やしと言われるだけだが、糸子が不倫をするのは気色悪いことである」という、恵さん(つまり世間)の思考が背景になっているのだ。
朝ドラは「そういうもの」と割り切って完走することに意義があるのかもしれない。ドラマなので、合う・合わないもある。
だから「おむすび」に対しても批判だけするのではなく、いいところも見つけながら3月まで見守りたい。そういう気持ちは持ち続けていきたい。