入浴剤の最期

どうでもいい話なのですが、わたし、「入浴剤を最初に入れておく」のが嫌いでして。

ルール上は「まずちゃんと溶かしてから人間が入る」というのが決まりなんでしょうが、「とりあえず最初はまっさらなお湯に浸かりたい派」なのです。

 

お風呂に入ってちょっとあったまってきたら、その時点で固形の入浴剤を入れるのが好き。

 

しゅわーって溶けていく入浴剤。

溶け切る直前、それまでお風呂の底でしゅわしゅわ言っていた入浴剤が、ふわっと水面に浮かんでくるんです。それを見るのが好き。

まるで、入浴剤が意志を持って最期の瞬間を迎えるために水面に上がってくるみたいに見えるんですよね。

ぐぐっと力強く浮かんで、しゅわって音をたてて、消えてしまう。まるで、何もなかったかのように。

 

入浴剤の最期を見守るのが、毎日の楽しみです。なんじゃそりゃ。

 

米のチェックという無駄な時間。

母親の実家は、兼業農家だった。

今は祖父も祖母も亡くなってしまったけれど、私が小さなころは田んぼも畑もけっこうな規模感でやっていて、田植えや収穫も手伝っていた。畑に関しては基本、自分たちと家族に配るためのものだったから、あまり農薬は使わず育てていたと思う。収穫の時虫食いの野菜がたくさんあった。

 

時を経て、祖父母も高齢になり田んぼ仕事ができなくなったため、貸してほしいという方にレンタルをするような格好になった。

祖父母が施設に入り、やがて亡くなって…その田んぼが買われたのか、それとも実家の母か別のきょうだいが継いだのかは分からないけど、今でも同じ方が米を作っていて、毎年稲刈りが終わるとその米を30キロほど、実家に持って来てくれる。

そして、そのうち半分すなわち15キロを、我が家がもらっている。ありがたいことである。

 

で、この米。

栽培主がこだわりの人らしく、農薬や消毒を極力抑えて栽培していて、玄米の状態でもらって精米をすると、黒い斑点のある米がけっこうな確率で混じっている。カメムシの食害だ。

 

栽培主は「環境にいいことをしている」という思いが強いのだと思うけど、ここまで混じってると、はっきり言っていい迷惑、というレベルである。

本人たちはそのお米をどうやって食べてるんだろう。もちろん、そのまま食べても問題はないのだろうけど、「新米が炊けたよ!」と言って炊飯器を開けたら「雑穀米ですか?」みたいな状態なのは、さすがに気持ちが悪い。

 

だから、精米するたびにかなりの時間をかけて「黒い米を除く」作業をしなくてはならないのだが…この作業がほんとに、「あー、無駄!」という以外にない。

無言でボウルに手を突っ込み、黒い米をちまちまと除くだけの作業…ああ、無為。

 

そして、農薬や消毒を控えているその米が、抜群においしいか、というと、これがまた、「うーん、まあ、それなり」の味なのだ。分かりやすくおいしければ多少の苦労はいとわないのだが、どこまでも「微妙」。

 

そういう状態なので、おととしは「うちはもういらないよ」と言って15キロの米を断った。実家には申し訳ないことをしたけど、黒い米を除く作業にかける無為な時間を思うと、普通にきれいなお米を買ったほうがいいと思ったからだ。

 

でも、去年は例のコメ不足を経験し、田舎の我が家でも「ギリギリ足りないかも」というところまでお米が枯渇した。新米の時期に間に合ったから「お米がない!」という状態は避けられたけれど、やっぱり通常より高い価格で売られているから「お、おう」という気持ちになる(適正な価格であるということは十分承知している。米農家の皆さんには頭が上がらないです)。

 

そういうわけで、去年は「もらいます」と言って実家から10キロの玄米を引き取った。去年精米機を買ったので、5合ずつ精米し、そのたびに20分ほどかけて黒い米を除く、という作業をしている。あー、無駄。無為な時間…でも、お米がもらえるだけでもこのご時世、かなりのアドバンテージだ。

ありがたいと言い聞かせ、日々黒い米を捨てているのである。

 

 

 

朝ドラが好きだ。

朝ドラが好きだ。

ドラマはほとんど観ないけど、朝ドラは「ドラマを観る」というよりも「朝の15分をどう過ごすか」というシステムの中にもう組み入れられているもの。

よっぽどでない限りは毎日観ている。

 

そんな朝ドラフリークの私にとっての「マイベスト朝ドラ」が「カーネーション」なので、朝7時15分からの「カーネーション」、そして7時30分からの「おむすび」という30分間は朝のルーティンとなっている。

 

カーネーション」と比較することで、どうしても「おむすび」に対しての何とも言えない気持ちが募ってくるのだけど、割り切って「こういうものだ」と思って観ている…でも、やっぱり毎日何とも言えない気持ちになる。

 

実は、ギャルが登場してあれこれ始まった時点で一度観るのをやめてしまったのだけど、「あれも大事な文化のひとつ」というXでの投稿を読んで、それもそうだな…文化として見ることも大切だ、だって朝ドラだもん、と思い直し、「とりあえず毎日観よう」と心を入れ替えた。

 

なので、ギャルが集まっていろいろやっていても心は凪のままでいられるのだが、どうしても「うーむ」と思ってしまうのが「ご都合主義脚本」だ。

 

誰かが困っていると、なぜか今まで見たことのない人が突然現れて、なんかうまい具合に物事が進んで解決してしまう。悩んでいるとちょうどいいタイミングでなぜか糸島から誰かがやってきて、物事をかき回していく。この「なぜか」の部分がまったく説明されないので、視聴者としては置いてけぼりを食った気になるのだ。

「なんで来たの?」という問いに「この人、今までも気が向いたら旅に出るような人だったから」と言われても、そんな描写今まで一度もなかったし(いや、あったかもしれないけれど、印象にはない)、「とってつけた」感が高まってしまう。

「なぜ今ここにいるの?」という疑問に対して「なんか思い立ったから」「あの時世話になったから」という答えでは、私は満足できないのだ。

 

この「ご都合主義」がずーっとドラマを取り巻いていて、主人公は悩んでもいつの間にか(本人の努力とか葛藤が描き切れないまま)物事が前に進んでしまう。それを「主人公と周囲の人間との絆」と片づけるのは、いささか安易すぎるのでは…と思ってしまうのだ。さらっとしている、し過ぎている。

 

比較するのは本当に酷だと思うけれど、「カーネーション」で描かれる「あれもこれも、ちゃんと全部繋がっている」という「バックグラウンドの完璧さ」には、やはり唸ってしまう。

突発的に何か些細な事が起こっても、それは別の何かの伏線だったり「ああ、だからあの時ああなったのか」という納得感のための材料だったりして、本当に、ひとつとして無駄がないし、かといって過剰もないのだ。

 

周防さんとの関係性が露見する前の、恵さんが春太郎のラジオを聴く場面。最初観たときにはあの場面の意味がよく分からなかった。

でも、あの場面があることで糸子の不義が際立つし、何より「春太郎は女とうつつを抜かしていても芸の肥やしと言われるだけだが、糸子が不倫をするのは気色悪いことである」という、恵さん(つまり世間)の思考が背景になっているのだ。

 

朝ドラは「そういうもの」と割り切って完走することに意義があるのかもしれない。ドラマなので、合う・合わないもある。

だから「おむすび」に対しても批判だけするのではなく、いいところも見つけながら3月まで見守りたい。そういう気持ちは持ち続けていきたい。

 

 

 

ダメかと思った~犬はほんとにえらい。

昨日のこと。

早朝からの仕事から帰宅したら、老犬の様子がおかしい。

 

吐きたそうにするけど何も出てこない。

理由もなくウロウロ。

そして、お腹がパンパンに張っている。

 

あ、これは「胃拡張」。

1年ほど前にも一度、同じ症状になったことがあった。その時は運悪く土曜日の夜で、私が暮らす土地には夜間・休日診療をしてくれる動物病院が1軒もない。

 

ネットを検索すると悪い記事しか出て来なくて、泣きそうになりながら寄り添うしかできなかったのが忘れられない。

 

その時は犬がウロウロ歩くうちにすごい音のげっぷが出て、そこから症状が好転し、事なきを得た。

翌日、動物病院の先生には「ここはそういう土地だから、予防してもらうしかない。胃拡張から胃捻転になったら、最悪の場合を覚悟しないといけない」と言われ、ぐっと身体が硬くなったことも覚えている。

 

そして昨日。

午前中だったから、慌てて犬を抱えてかかりつけ医に。胃の動きをよくする注射をしてもらい、夜から飲む薬をもらって帰宅する。

そのまま家にいて様子を見るけど、お腹の張りは全然治らない。歩いたらいいのかも、と思って誘導するけど、あんなに外が好きな犬が歩きたがらない。足取りが重く、後ろ脚に力が入らないみたいだった。

 

このまま歩けなくなったらどうしよう。そんな思いがよぎって悲しくなる。

とにかくガスが抜けないと…と病院に電話すると「鼻から管を入れてガスを抜く方法もあるけど、鎮静剤を打たないといけない。年齢を考えるとそのまま呼吸が戻らない可能性もある」とのこと。話を聞いただけで電話口で泣きそうになる。

 

ごはんはあげずに薬だけ飲ませてみて、お腹の動きが活発になるのを待ってみよう、ということになった。飲んでくれるかなあと思いながら犬を抱え、口を開けて薬を2錠、ぽとんと入れてぎゅっと閉じさせる。

 

すると、なんとそのまま眠ってしまった。

 

いつもなら昼間はずっと寝ているけど今日はできなかったから、よっぽど眠かったんだろう。そのまま、途中何度か目を覚ますけどひたすら寝る、寝る。安らいだ顔にホッとするけど、このまま起き上がれなかったらどうしよう…とそれはそれで心配になる。

 

寝ている最中に、何度も何度もおならが出る。おならが出るたびに小躍りするくらい嬉しくなる。

3時間くらい経ったころ、お腹はすっかりぺったんこになっていた。

 

そして翌朝(きょう)。いつも通りにとことこ歩いて「散歩に行こう」と言ってくれた。あー、良かった。ほんと、ダメかと思った。

 

こうやって一喜一憂しながらの、老犬との暮らし。

心配事が多いけど、犬は本当によく頑張ってくれる。えらいなあ。ありがとうね。

それでも日々は。

ストレスの原因である家族との連絡はいまだ取れず、悶々として日々を過ごす。とはいえ仕事もあり家事もあるので、日々は悩みつつも流れてゆく。

相変わらずお腹は痛く食欲もないが、それでもご飯は作るしお弁当も作る。日常とはそういうもの。

 

年の初めから通い始めた近所の図書館。予約していた千早茜さんの本が貸出可能になったので仕事帰りに寄る。帰ってから一気に読んだけど、今までのような手ごたえはなかった…期待しすぎたのかも。

 

代わりに、「ドライブインまほろば」がとても面白くて、いいものを読んだ!という読後感があった。読んだことがない作家の小説をたくさん読む、というのも年始の目標のひとつ。遠田潤子さん、これから読んでいこうと思う。

 

きょうは何か、物事が前に進みますように。

ほんと、祈るしかない。

ストレスが腸に直接来るタイプです

家族のことで悩みが絶えない。

遠方に暮らしているので、様子が分からない。心配なのに電話に出てくれない。LINEも既読にならない。

こうなると、もうお手上げである。こういうことが、数か月に1度起こる。

 

成年だしもう勝手にやれば、という気持ちもあるが、世知辛い昨今、変なことに手を染めやしないか、変なところからお金を借りたりしないか、という心配からつい、連絡をとってしまう。普通に電話に出てくれれば心配することもないのだけれど…電話に出ないということは後ろ暗いところがあるんだろうな、と思うとますます心配になる、という悪循環だ。

 

ちなみに2か月前は連絡が取れないまま直接会いに行った…5時間かけて…。過去イチ疲れた。そのせいだと思うが、帯状疱疹になった。

 

もうしんどくて、正直行きたくない。

 

なので、早く電話に出てほしい。切実だ。

 

こういう時、私は分かりやすく下痢になる。お腹がきゅーっと痛くなるのだ。精神的ストレスが腸に来るってこういうことなんだな、と俯瞰で見ていたりする。

そういうわけで今日も朝からずっとお腹が痛い。仕事で打ち合わせが入ったりすると何度も席を外すことになり非常に申し訳ない&恥ずかしさの極みだ。

 

以前はそんなことなかったんだけどな…これも年齢からくるものなんだろうか。

ろうけんのさんぽ。

今月で15歳になった犬を飼っている。

犬種はボーダーコリーだけど、幼い頃からボーダーらしからぬのんびりした性格で、そこが気に入って迎え入れた、大切な家族だ。

 

去年の夏からぐぐっと老け込んで、後ろ脚に思うように力が入らなくなった。筋肉量が落ちて、あんなに立派だった腿がほっそくなって、立ち上がるときにはいつも難儀している。

 

でも、食欲もたっぷりあるし、散歩にも行きたい行きたい!なのが嬉しい。

 

毎朝5時に起きて、ゆっくりと家の周りを歩く。段差でよろめいたり、うまく歩けなかったりするけれど、本人(犬)はとっても楽しそうで、その姿を見ているだけで幸せだ。

けさはいつもよりも長く歩きたがって、一度帰りかけた道を戻り、30分くらい歩いてくれた。

 

人もそうだけど、犬も段階的に年老いていく。次は歩けなくなった時のことを先回りして考えておかなくては…。なるべく、その日が先延ばしになってくれたらいいなと思う。